二〇一五 - 二〇二五 / 肖 像 写 真
この時、二〇一八年立秋の頃。
妻のお腹に包まれた長女は臨月を迎えていた。
二〇一五年から内なる現れとして発動した衣の発端で、
暮らしをあけわたしてきた京都府福知山の山ふかい場所。
植物の存在を心から愛する村のおばあちゃんは、
僕たちでさえも植物と同じようなうつくしむ眼差しでほほえんでくれた。
現世 ( うつしよ ) に一つしかない花壇や庭は、
その御姿がそのままろ過されたような聖地であり、
居心地のよさとはこういうことだと知らされた。
亡くなったときは、遺影として僕の撮った肖像写真が飾られた。
人生のなかで手をとりあった縁は沢山あるはずなのに、
老いた先に出会った僕たちとの数年間で記録した写真を。
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僕は、i a i / 居相 の衣から在巡る身体と向き合っている。
老いの波は人ほどにある中で
皺寄( しぼよる )自身を負うための
老いの身をいつわるための衣ではない。
身体がたくわえた地層がもしや美しいとさえ感づき、
覚る衣服であるために、この身と心で向き合っていく。
村のおばあちゃんはほんとうに美しかった。